講話会の様子

紅葉が見頃を迎える10月11日から13日までの3日間、鹿沢インフォメーションセンターで「永遠とわなる小串おぐし ー 小串硫黄鉱山展 ー」が開催されました。

会場には鉱山の様子を伝えるパネルや写真、硫黄の鉱石標本、作業員が坑道で使ったカンテラなど約50点が展示され、パークボランティアが来場者に鉱山の概要と歴史について解説をしました。

13 日には当時の鉱山を知る方による講話会が開かれました。1947(昭和22)年から1971(昭和46)年に鉱山が閉山するまでの24年間、測量係を務めた方の話によると、戦後の混乱期であったにもかかわらず、標高1600mの高地に位置する鉱山のまちには「くじら、にしん、キャラメルなどが豊富にあった」そうです。燃料や冬季の暖房に使われる薪、水道、住居の畳は無料で提供され、鉱山に住んでいる限り「お金の心配をすることはなかった」といいます。

硫黄の製錬に必要な重油は製錬釜1基1日あたりドラム缶6本分で、当時それが32基あったそうです。1日あたり最大ドラム缶192本分の重油が、硫黄の製錬のために使われる計算になります。

国内屈指の生産設備を備えた小串硫黄鉱山ですが、やがて原油を精製する過程で、不純物として回収される硫黄が安く大量に出回るようになると、曲がり角を迎えます。回収硫黄の価格はトンあたり1万3千円。これに対し閉山時の採掘硫黄の価格はトンあたり2万4千円でした。鉱山はこの価格差を埋めることができず、ついに閉山となったのです。

地蔵堂に供えられたピンクのカーネーション

鉱山では1937(昭和12)年に大規模な地滑り災害が起きて、245名の命が犠牲になりました。毎年7月の第4日曜日には、鉱山跡そばの地蔵堂で慰霊祭が行われています。地蔵堂は交通の悪いところにあるにもかかわらず、手入れが行き届いていて、そこには新鮮な花が供えられています。

今回の企画展では、鉱山の元労働組合長、歴史文化遺構の記録をしている写真家、火山の地質を研究している方から、鉱山にまつわる貴重な資料の数々がセンターに寄せられました。また近隣にある石津硫黄鉱山で働いていたという来場者からは、「閉山の翌年から毎年鉱山関係者の集いを行っていて、いつも30人前後の参加者があります」という声も聞かれました。

こうしたことから感じられるのは、鉱山に対する人々の強い思いです。いったい鉱山の何が、人をこんな気持ちにさせているのでしょうか。

これについて、小串硫黄鉱山の学校で12年間、教員を務めた方はこう話していました。

「鉱山の学校にはクラス替えはありません。共同浴場では先生と生徒が互いの背中を流し合い、木造の長屋では隣同士で生活品を融通し合って生きていました。そうしたなかで育まれていく鉱山共同体の様子に、人々の気持ちが引きつけられているのではないでしょうか」

(F)