レンゲツツジの名所として知られる湯の丸高原。
そこはかつて、牧場としての利用が盛んなところでした。
毎年レンゲツツジが開花する頃になると、群生地には牛が放牧され、往時の面影をしのぶことができます。
湯の丸高原は時代とともにどのように変わってきたのでしょうか。
そしてこれから、どのように変わろうとしているのでしょうか。
湯の丸牧場
湯の丸牧場は、1904(明治37)年に鹿沢温泉の湯本紅葉館の館主、小林亀蔵氏が中心となり開かれました。
標高は鹿沢側山腹の1585mから湯の丸山頂の2101m、広さは272haにおよび、最盛期の1950~1955(昭和25~30)年には、年間300頭ほどの牛馬と羊を放牧していました。
湯の丸牧場は、その数60万株とも言われるレンゲツツジ群落の形成にも大きく関わりました。
湯の丸高原は火山地帯にあり、もともとレンゲツツジに適した環境だったことに加え、牧場ができたことで、牛馬にとって毒があるレンゲツツジは餌として食べられることなく残り、次第に数を増やしていったのです。
その結果、湯の丸高原のレンゲツツジ群落は、1956(昭和31)年に国の天然記念物になりました。
やがて時代の変化とともに牧場は下火となり、放牧頭数は減少していきます。
その代りに、レンゲツツジの花が咲く時期には、花を楽しむために大勢の人が湯の丸高原を訪れるようになりました。
湯の丸高原いまむかし
昭和初期の湯の丸高原には、木があまり生えていませんでした。
80年ほどで、樹木がかなり増えたことがわかります。
湯の丸スキー場
1928(昭和3)年には、湯ノ丸山のふもとにスキーのゲレンデが開設されました。
その後、1961(昭和36)年に湯の丸観光株式会社よって本格的にスキー場の整備が進められ、現在に至っています。
上質のパウダースノーは当時の話題になりました。
絵葉書に記された便り
亀島重冶様
東京の超非常時も、やゝ峠を越したやうに思はれましたので、二十八日夜、出發。
翌日上州鹿澤温泉(群馬縣西北隅)に着、今晩で三泊しました。この間、幸にも連日晴天、周囲の山々をスキーで荒し廻りました。僕一人ではなく、リーダー格の先生の後をついて行くのですから、危險は殆どなし。その点は、十分御安心下さい。明日、早朝こちらを離れ、――天気がよければ上州と信州との境に当る山續を乗越えて、――上田に出、東京へ帰ります。
毎日このやうにスキーをやっても疲れを知らないのは、漸くこれになれたせゐだと思ひます。三月二日
亀島泰冶
高地トレーニングの場
標高の高いところは大気が薄いため、有酸素運動により効率的に心肺機能を高める効果が期待できます。
湯の丸高原は標高1750mに位置し、首都圏からの交通の便も良いことから、高地トレーニングの拠点にしようと、400mトラックレーン、800mジョギングコース、2500mトレイルランロード、オートキャンプ場、ビジターセンターなどの施設整備が進められています。
東御市(長野県)では、今後、国内初となる高地トレーニング用プールや、宿泊施設なども整備していくとしています。
「湯の丸から日の丸を」を旗印に、スポーツ活動の拠点として発展しようとする湯の丸高原。
その歴史に新たなページが加わろうとしています。
(F)